Iru no ha tsurai yo (Q114754866)

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Book in Japanese. Tohata, 2019
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Iru no ha tsurai yo
Book in Japanese. Tohata, 2019

    Statements

    居るのはつらいよ (Japanese)
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    ケアとセラピーについての覚書 (Japanese)
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    幕間口上、ふたたび / ケアとセラピーについての覚書 /ケアとは何か / ケアとはつけないことである。 / セラピーとは何か / セラピーとは傷つきに向き合うことである。 /以上からおわかりだと思うのですが、セラピーでは「ニーズを満たすこと」ではなく、その「ニーズを変更すること」が目指されます。 (Japanese)
    p.275 / 幕間口上、ふたたび / ケアとセラピーについての覚書 /セラピーとは何か / ケアが依存を原理としているとするなら(依存と自立の関係もいろいろあるのだけど、ここではシンプルに話を進めておきましょう)、セラピーは自立を原理としています。自分の問題を自分で引き受ける。痛みや傷つきを受け取前る。そうすることでより自由になる。人として成熟する。だから、ケアでは変化するのは環境でしたが、セラピーでは個人が変化していくことが目指されます。 (Japanese)
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    2019
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    「遊びの精神分析」を打ち立てたウィニコット
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    p.152 / 第5章 円と線 / 暇と退屈未満のデイケア / デイケアは遊ぶ / 「遊びの精神分析」を打ち立てたウィニコット (Japanese)
    「自我境界」という概念
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    p.140 / 第5章 円と線 / 暇と退屈未満のデイケア / 精神分析家のフェダーン (手を握ることで有名な看護師シュヴィングと一緒に統合失調症の治療をしていた人だ) は「自我境界」という概念を提唱している。それは自分と外界、あるいは自分と他者、そして自分の意識と無意識のあいだにつくられる境界線のことだ。 / 自我境界がきちんとしているから、自分の考えと人の考えを混濁しない。現実と空想を混濁しない。逆にいうと、自我協会が揺らいでしまうと、いろいろ面倒なことになる。たとえば、幻聴。そのとき、内なる声を外の声が混線してしまっている。 (Japanese)
    精神分析家のフェダーン (手を握ることで有名な看護師シュヴィングと一緒に統合失調症の治療をしていた人だ)
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    p.140 / 第5章 円と線 / 暇と退屈未満のデイケア / 精神分析家のフェダーン (手を握ることで有名な看護師シュヴィングと一緒に統合失調症の治療をしていた人だ) (Japanese)
    民俗学でいう「ハレとケ」
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    p.166 / 第6章 シロクマとクジラ / 恋に弱い男 / 刺せ! 盗め! 二人とも殺せ! / そのために、さまざまなイベントが開催される。カラオケ大会やクリスマス会、遠足、ビーチパーティーなどなど。 / 民俗学でいう「ハレとケ」というやつだ。終わることなく繰り返される「日常=ケ」は徐々に枯れていって、「ケガレ」になってしまう。するとケガレは暴走し、デイケアの平和を脅かす。だから、ときどきハレの時間を挿入することで、枯れたものを生き返らせる。 / ハレの時間とは、祝祭の時間のことだ。 / その最たるものがスポーツだ。スポーツには勝ち負けがあるから、ふだん封じられている攻撃性にかたちが与えられる。 / そうやって、見えないところでうごめいているものは発散され、澱んだ時間が再生される。 (Japanese)
    社会心理学者のリースマン / 「援助者療法原理 Helper Therapy Principle」
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    p.204 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 小さなケアが行き交う -- 午前のこと / 社会心理学者のリースマンが「援助者療法原理 Helper Therapy Principle」という理論を語っている。簡単に言ってしまうと、誰かを助けることが、自分の助けになるということだ。 (Japanese)
    アルコホリック・アノニマスのような自助グループ
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    p.204 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 小さなケアが行き交う -- 午前のこと / こういうメカニズムをフル活用しているのが、自助グループだ。実際リースマンはアルコホリック・アノニマスのような自助グループを念頭において援助者療養原理について語っている。 (Japanese)
    p.204 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 小さなケアが行き交う -- 午前のこと / なぜそのようなことが起こるのか? / リースマンはいくつかの説明を挙げている。たとえば、人にものを教えることで、自分自身がよりよくそのことについて理解できること。あるいは、人の役に立っていることで自己イメージが良くなること。そして、そうすることで集団のなかでの自分の居場所ができること、などなど。 (Japanese)
    アルコホリック・アノニマスのような自助グループ
    1 reference
    p.204 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 小さなケアが行き交う -- 午前のこと / こういうメカニズムをフル活用しているのが、自助グループだ。実際リースマンはアルコホリック・アノニマスのような自助グループを念頭において援助者療養原理について語っている。 (Japanese)
    メンバー, コミュニティ一, ユーザー
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    p.222 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 内輪ネタで笑う -- 夕方のこと / 「メンバー」とはもともとラテン語の「menberum」を語源としていて、それは「体の一部」とか「手足」という意味を持つ。メンバーであるとはコミュニティの一部になることなのだ。一方的にサービスを受けているひとはメンバーになれない。そういう人は、「ユーザー」と呼ばれる。そうではない。メンバーとは内側に入って、コミュニティの一部になった人だ。 (Japanese)
    1 reference
    p.222 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 内輪ネタで笑う -- 夕方のこと / 國分氏は、太古の文法では能動態と受動態でも語りきれない動詞存在する。「する」でもなく、「される」でもなく、なんとなく生じてしまうという事態が存在する。 (Japanese)
    p.222 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 内輪ネタで笑う -- 夕方のこと / たとえば、國分氏は「生まれる」とか「死ぬ」とか「座っている」とか「耐え忍ぶ」とか「心が動揺する」とか「気にかける」とかを挙げている。それはいずれも、意志を超えて、「なんとなく」生じてしまうものだ。だって、「今から、死にますね」とか「じゃあ、生まれますね」とか、そんな言葉遣いは成立しない。それは能動でも受動でもない。 (Japanese)
    p.222 / 第7章 治療者と患者 / 金曜日は内輪ネタで笑う / 内輪ネタで笑う -- 夕方のこと / 國分功一郎『中動態の世界』 / 文献一覧 p.340 / 國分功一郎『中動態の世界 -- 意志と責任の考古学』医学書院、2017年 (Japanese)
    アンビバレンス
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    p.241 / 第8章 人と構造 / 二人の辞め方 / 精神看護の老翁は風のようにデイケアを去りぬ / 去っていく人が目の前にいることほどつらいことはない。 / そこには愛情と憎しみの療法が存在してしまう。心理学ではそういう状態を「アンビバレンス」と言う。正反対の気持ちが目の前の人に向くことだ。とても大切な人が、去っていく。すると、感情は複雑になる。 / (Japanese)
    p.241 / 第8章 人と構造 / 二人の辞め方 / 精神看護の老翁は風のようにデイケアを去りぬ / そこには葛藤が生じるし、心が引き裂かれる。それが心を動揺させて、日常を掘り崩してしまう。心に脆弱さを抱えているならばなおさらだ。 / そういうとき、一見非常なように見えるけど、じつは距離が役に立つ。手も目も届かないところに離れることで、感情の生生示唆から距離をとることができるからだ。 (Japanese)
    1 reference
    p.275 / 幕間口上、ふたたび / ケアとセラピーについての覚書 /セラピーとは何か / ケアが依存を原理としているとするなら(依存と自立の関係もいろいろあるのだけど、ここではシンプルに話を進めておきましょう)、セラピーは自立を原理としています。自分の問題を自分で引き受ける。痛みや傷つきを受け取前る。そうすることでより自由になる。人として成熟する。だから、ケアでは変化するのは環境でしたが、セラピーでは個人が変化していくことが目指されます。 (Japanese)
    アジール
    アサイラム
    4 references
    p.286 / 最終章 アジールとアサイラム / 居るのはつらいよ / アジールとはシンプルに言ってしまうと「避難所」のことだ。逃げ込む場所のことだ。 /歴史学者の夏目琢史氏にしたがって、「犯罪者がひとたびその中に入り込むと、それ以上その罪を責めることができなくなる空間」(『アジールの日本史』22項)となる。 (Japanese (Hiragana script))
    p.287 / 最終章 アジールとアサイラム / 居るのはつらいよ / デイケアだって、もともとアジールだった。デイケアを始めた一人であるビエラは、精神科病院から退院した患者が地域で暮らすための手助けとして、「ソーシャルクラブ」を設立した。そこは街なかの普通のアパートの一室で、病院の外での生活を厳しく感じる患者たちが避難してくる場所だったのだ。 (Japanese)
    p.287 / 最終章 アジールとアサイラム / 居るのはつらいよ / そういう場所には、神仏はいなくても、ふだんとは違うルールが働いているので、いつもとはちょっと違う自分になれる。だから、現代の罪人がそこに逃げ込む。 /現代の罪人とは、文字通り法律に違反した人ではなく、集団の規範から外れてしまって、なんとなく生きづらくなってしまった人のことだ。 (Japanese)
    アサイラム
    p.301 / 最終章 アジールとアサイラム / 居るのはつらいよ / ブラックデイケアとは「アサイラム」なのだ。 /「アサイラム」とは社会学者のゴッフマンが用いた用語で、「全精的施設」と訳される。というと余計に意味がわからないかもしれないが、ようは収容所とか、刑務所とか、あるいは古い精神病院のように、そこに「いる」人を画一的に管理する場所のことを言う。 (Japanese)
    2 references
    p.299 / 最終章 アジールとアサイラム / 居るのはつらいよ / 小林エリコ氏のエッセイ『この地獄を生きるのだ』に描かれているブラックデイケアを取り上げたい。 / 文献一覧 p.340 / 小林エリコ氏 『この地獄を生きるのだ -- うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで』 イースト・プレス、2017年 (Japanese)
    デイケアの専門家である古屋龍太氏はある論文の「闇の舞台としてのデイケア」(古屋龍太 「精神科デイケアはどこに向かうのか」『精神医療』 第89号、4-5項) (Japanese)
    遊ぶことと現実
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    p.152 / 第5章 円と線 / 暇と退屈未満のデイケア / デイケアは遊ぶ / 「遊びの精神分析」を打ち立てたウィニコット / (ウィニコット『遊ぶことと現実』五三項) (Japanese)
    人類学者レヴィ=ストロースは『野生の思考』という名著
    1 reference
    p.189 / 第6章 シロクマとクジラ 恋に弱い男 / 変わらないものと変わるもの / 人類学者レヴィ=ストロースは『野生の思考』という名著のなかで、原始的な部族の社会を「冷たい社会」と呼び、僕たちの社会のことを「熱い社会」と呼んでいる。 (Japanese)
    p.189 / 第6章 シロクマとクジラ 恋に弱い男 / 変わらないものと変わるもの / 冷い社会は、自ら創り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力とする。(レヴィ=ストロース 『野生の思考』 p.280)(p.340 文献一覧 レヴィ=ストロース、C 『野生の思考』 大橋訳、みすず書房、1976年) (Japanese)

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